Hommage a TOKIO KUMAGAI

パリをデザインの拠点とし、東京コレクションで発表を続けたファッションデザイナーの軌跡をたどります

岩立マーシャ氏の語る登喜夫さん その1

 TOKIO by DOMONとTOKIO KUMAGAÏ両ブランドの登喜夫さんのブレーンとしてクリエイションに参加していらした岩立マーシャさんとお会いしました。(以下一部敬称略)
 岩立さんは’70年代、フレンチシェフ熊谷喜八氏と「シルバー・スプーン」を開店。その後広告やファッションショウの制作を手がけました。’90年代より再び様々なレストランをプロデュースされ、現在は照明ブランドを発表したり、家具ブランドのプロデュースなど活動は多岐に渡ります。『春秋』『Japan Living』など執筆活動も精力的です。
http://www.marei-ltd.com/index.html
(お話しいただいた内容を下記フォーマットに編集しました)
<共通の質問>

Q1. 登喜夫さんとおつきあい(お仕事)を始めたきっかけを教えてください。
広告とファッションショウのプロデューサーとして株式会社JUNと契約を結んでいた(namourOK注:岩立さんはJUNの広告やショウで当時とても斬新な作品を発表し売上にとても貢献されました)時にTOKIO by DOMONブランドが設立され、担当することになりました。

Q2. 最初に登喜夫さんにお会いになった時の第一印象を教えてください。
私はアートの中でも写真がとても好きで、当時レニ・リーフェンシュターLeni RIEFENSTAHIのベルリンオリンピックを題材にした一連の作品が好きだったのです。登喜夫もこの写真家に注目していた事を知り嬉しかったのを覚えています。アートや音楽などの好みが似通っていて、お互いに『一を聞いて十を知る』ことのできる阿吽の呼吸を感じました。

Q3. 登喜夫さんを何と呼んでおいででしたか?ご自身は何と呼ばれておいででしたか?
登喜夫。マーシャ。

Q4. 差し支えなければ、登喜夫さんにまつわるエピソードをご教授ください。
私がTOKIO by DOMONのショウを担当することが決まると、登喜夫は私をパリに呼びひと月くらい共同生活をしました。仕事の話はあまりせず、既にヴィクトワール広場にブティックとアトリエを構えていた彼の仕事が終わるのを待って、いろいろと遊びに行きました。美術館などへ足を運ぶ一方、登喜夫は流行のスポットへも誘ってくれました。登喜夫は一体いつ仕事をしているのだろうか?という印象があります。私はアトリエ外のスタッフとして彼のクリエイションに関わっていたのでそのように目に映ったのかもしれませんが。アトリエにはスムーズに意思疎通できるスタッフに恵まれ、また人材を嗅ぎ分ける力が鋭かったのだと思います。
この私とのパリ共同生活の中から登喜夫はお互いのセンスを確認していたのか、実際に私がショウのプロデュースについて彼に様々なアイディアを話すと「もうマーシャに任せてるから」と信頼してすべてを任せてくれました。TOKIO by DOMONのショウから既に、旅で知り合ったりストリートから発掘した、プロではないモデルを起用しました。最初のショウはどうしてもプールのある空間にしたく、文化服装学院の遠藤記念館に無理を言ってプールを作りました。
ショウのBGMは登喜夫が自身で選ぶことが多く、あるショウでは本番の準備が9割方整った頃にジョン・レノンJohn LENNONの新譜が発表され、『Woman』と『Starting Over』という曲をどうしても使いたい!と言い出し大幅に構成し直すはめになりましたが、ショウにとても調和した素晴らしい内容に仕上がったのをよく覚えています。
登喜夫がTOKIO KUMAGAÏブランドをはじめた時、私はまだJUNとの契約がありビジネスのつきあいはありませんでしたが、彼が東京に来る時は必ず会っていました。

Q5. TOKIO by DOMON/TOKIO KUMAGAÏブランドについてどのような印象をお持ちですか?ブランドの品物をお持ちでしたか?今もご愛用中、もしくは大切にとっておいでのお気に入りはありますか?
登喜夫は新しい素材にとても貪欲でした。TOKIO by DOMONでダブルフェイスの素材にジャガードで織り模様をつけたトレーナーのシリーズは今まで誰も作ったことの無い美しい作品でした。TOKIO KUMAGAÏではよく旅をしたアジア、中でも登喜夫が愛したネパールから触発されたデザインを見せましたが、彼は民族衣装をそのまま見せるエスニックではなく独自の美的センスを加えひと味もふた味も違うデザインに昇華させていました。
結婚祝いに貰ってウェディングドレスの時に履いた白鳥モチーフの靴と、シンプルな靴は数足持っています。

Q6. 登喜夫さんとの協働は、ご自身に変化をもたらしましたか?(キャリア面、プライベート面)
きれいなモデルが着る服の見せ方を好まなかった視点は、その後私が他のブランドを担当する時に参考になり、ポートレートの広告として発表しました(namourOK注:EXというJUNの海外向けブランドではマイルス・デイビスMiles DAVIS氏のポートレートが話題を呼びました)