Hommage a TOKIO KUMAGAI

パリをデザインの拠点とし、東京コレクションで発表を続けたファッションデザイナーの軌跡をたどります

岩立マーシャ氏の語る登喜夫さん 番外編

数年ぶりにマーシャさんとメッセージのやり取りがあり、再びお話を伺う機会を持つことが叶いました。
登喜夫さん没後にTOKIO KUMAGAÏブランドに関わられた、いくつかのシーズンのヴィジュアルブックをわけていただいたのですが、その折に、ダイニングバーを運営されていたマーシャさんがなぜファッションの世界に飛び込むことになったのかを伺いました。
現在のマーシャさんの公式URLはこちら
岩立マーシャ氏の語る登喜夫さん その1岩立マーシャ氏の語る登喜夫さん その2 も合わせてお読みください)

株式会社JUNの佐々木忠社長(当時)がふらりとSilver Spoon に来店され、「お願いしたいことがあるので、明日社まで来訪ください」と突然打診されました。1960〜70年代の、JUNやROPÉの伝説といわれたTVCMが記憶に残っていたので、話を聴くことにしました。
本社はまだ芝浦にあって、社長室もなくビルの一室に通されたところ、とても驚いたことに、私にランウェイショウの演出をして欲しいと佐々木社長から直々に依頼を受けたのです。しかも予算には上限は無く、私の要望はほぼ全部叶えてくれるという夢のような提案でした。
実際、手がけたショウの中には、JUNブランドの服を使わなかったこともあります。私が演出したショウはとても話題を呼びました。
ショウの演出をきっかけに、その後も株式会社JUNと協働を続けました。

TOKIO by DOMONにおいても同様にランウェイショウ
(namourOK注:いくつかのショウはDOMONとのジョイントショウでした)が成功しました。
登喜夫さんが株式会社JUNとの契約を終え、イトキンとTOKIO KUMAGAÏ INTERNATIONAL を創設した折にも引き続きランウェイショウの演出を依頼されましたが、佐々木社長への恩義もあり、お断りしました。(namourOK注:TOKIO KUMAGAÏのランウェイショウは全て、サル・インターナショナルの四方義朗氏(当時)が担当されました)