Hommage a TOKIO KUMAGAI

パリをデザインの拠点とし、東京コレクションで発表を続けたファッションデザイナーの軌跡をたどります

岩立マーシャ氏の語る登喜夫さん その2

 岩立さんからおうかがいしたお話を続けます。(一部敬称略)
'80年代にJUNが発表した『Qu’en』というトレーニングウェアがありました。技術提携のある中国の工場で制作したラインで、後染めにより20数色のカラーバリエーションを持つとても個性的なラインナップ。このブランドも登喜夫がデザインしました。
'87年、亡くなる6か月ほど前に登喜夫から連絡がありました。どこか外で昼食でも、と思いましたが登喜夫が「食欲が無い」と言うのでじゃあ素麺でも、と私の家に招きました。その時に彼本人からショウのプロデュースを依頼されました。当時JUNの仕事がひと段落していたのでこの申し出を引き受けました。
登喜夫が亡くなってからもTOKIO KUMAGAÏブランド広告やショウのプロデュースは続けました。今でも印象に残っているのはアクセサリーのカタログでロバート・メイプルソープRobert MAPPLETHORPEに打診したときです(namourOK注:岩立さんはNY在住経験があり、かの地のアーティストと盛んにご交流されています)。当時病床にあったロバートに連絡をした際、最初はマネージャーの方がとても仕事をできる状態ではないと断ってきたのですが、一時間後本人から再度連絡がありそれから数週間後、NYのスタジオにうかがいました。バッグを数点持参するとロバートは車いすに座っていて、マネージャーの方が断った理由が一目で分かりました。バッグを渡し、締め切りまで余裕があるので3ヶ月で15カットほどお願いしてスタジオを後にしました。全く期待はしていなかったのですがなんと3週間でメールヌードとバッグを組み合わせたすばらしい作品を撮り下ろしてくれたのです。マネージャーも「ロバートは君達が去った直後から、車いすから立ち上がって精力的に作品づくりに励んでくれた。こんなロバートを見るのは本当に久しぶりでマーシャのお陰だ」と感謝の言葉をかけてもらえたのです。
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 最近、私が感銘を受けた登喜夫さんの最後のコレクション('88春夏)のテーマがベルリンオリンピックだったと知り、その後に岩立さんからLeni Riefenstahiの名前が挙がりました。好きな写真家の世界を登喜夫さんは自分のクリエイションに反映させたのだと思います。
 お話に出てきたバッグの広告(松島正樹氏がデザイナの頃だそうです)を私は知らなかったので、是非いつか拝見できれば、と思います。
 お忙しい中お話し下さった岩立マーシャさんにはこの場を借りてお礼申し上げます。