Hommage a TOKIO KUMAGAI

パリをデザインの拠点とし、東京コレクションで発表を続けたファッションデザイナーの軌跡をたどります

『ハイファッション』1988年2月号 No. 166(二・終)


追悼ページには、当時の文化出版局パリ特派員でいらした藤井郁子さんの以下の文章も添えられていました。

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トキオの、ミサに臨んで。

藤井郁子


 「パリ、東京、ニューヨーク
クリストフ・ジラール、フランソワーズ・ビュリ、デュイ・セードが
十一月一〇日 火曜日 一六時からサンメリ教会ーヴェルリ通り七六番地ーで熊谷登喜夫を回想してミサの儀式を行なうことをご案内します」
と一一月七日付けル・フィガロ紙に小さな広告が掲載された。このミサは最後まで病床に付き添って看病したサンローラン店に勤めるパリの親友やニューヨークの親友たちによって企画され、東京で開催された遺作ショーと同じ日に行なわれることになった。
 
 ポンピドゥー・センターに近い、マレ地区にあるサンメリ教会。格子柄のジャケットを着たトキオの大きな写真と白い花束や白い花輪の飾られた祭壇の前に、約一〇〇人近くが集まった。彼のデビュー期、共に働いたジャンシャルル・ド・カステルバジャック夫妻、マリー・クレール誌のモードグループ、元エル誌のモードチーフ、マフィアのアートディレクター……といった有名なパリ・モード関係者、ニューヨークの友人たち、日本の仲間たち、と極めて国際的。そして皆あまりにも急に飛び立ってしまった感のあるトキオの死が信じられないというふうだった。ル・フィガロ紙では「”靴”はそのユーモリスト熊谷登喜夫を失った」、リベラシオン紙は「トキオ・クマガイの最後の靴」とそれぞれ題して、熊谷登喜夫の急な死を報じると同時に、靴のモード界における彼の功績をたたえていた。トキオをはじめとして、ケンゾー、イリエ……とパリ在住の日本人スチリストの活動は各々特徴があって、それぞれ人気があり、親しまれている。それにしても、これからの活躍が期待されていたトキオだけに、残念でならない。