Hommage a TOKIO KUMAGAI

パリをデザインの拠点とし、東京コレクションで発表を続けたファッションデザイナーの軌跡をたどります

『ハイファッション』1988年2月号 No. 166(一)


登喜夫さん没後に発表された1988年春夏コレクションが店頭に並ぶタイミングで、『ハイファッション』が追悼特集を掲載しました。

友人で詩人の高橋睦郎さんが、ランウェイショウ当日のお気持ちを寄稿されています。

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トキオは生きている。

高橋睦郎



 十一月十日、トキオ・クマガイ’88春夏コレクション当日、私は午前十一時過ぎに会場に入った。この日はリハーサルから打上げまで一日、トキオに付き合っていたい、と思った。
 
 リハーサルは正午すこし前から始まった。エルトン・ジョンの音楽の波に乗るように、離れるように、つまり戯れるように出てきた作品は、ウェアも、シューも、予想どおり、いや、予想以上に軽やかで、ほとんど翔び立つばかりだった。

 この印象は午後二時からの第一回のショウでさらに明確なかたちをとった。軽やかで翔び立つばかりというと、ともすれば軽さ・薄さと受けとられかねないがそうではない。じゅうぶんな重さ・厚さ……といってもいいすぎなら、じゅうぶんな確かさを持ちながら、みごとな軽やかさに達した、ということだ。天上的……という言葉が私の前頭葉に浮かび、私はその言葉に頷いていた。

 思えば、十年あまり前、私が出会って以来のトキオの仕事は、軽やかに、さらに軽やかになろうとする運動の絶えざる進行形だった、と思う。二十歳代後半のトキオが重かった、というのではない。初対面のトキオはファッション・デザイナーとしての出発点を模索していたはずなのに、ファッションに一生しがみつこうなんて思わない、年をとったら覚えた言葉を生かして、日本でフランス人の、フランスで日本人の観光ガイドなんかやってみたい、といって、私を驚かせたものだった。

 自分が詩を書かなくなっても誰も困らない、詩なんてべつに後生大事なものでもない、そういうところで書いている、といった私への対応の気味がないわけではない。出発点に立った者の不安も混っていたろう。しかし、やはり大筋のところで本音だったのではないか。そういう自分の資質に作品を近づけ、すり合わせるところに、彼の生きかたがあった。このことはJUN時代の作品とイトキンに移りトキオ・クマガイ・インタナショナルを設立してからの作品とを較べてみれば、明瞭だろう。その意味では、彼の移籍は経済的理由よりも創作活動の本質から出たもの、と捉えるべきだろう。

 トキオ・クマガイに籍を置いてからも仕事は年年軽やかに、自由になって行った。さきに自分の資質に作品を近づけるといったが、これは逆もいえることで、作品がさらに軽やかに、さらに自由になるにつれて、作者もさらに軽やかに、さらに自由になって行ったように、国内店舗も年年増え、パリの店舗もフランチャイズも含めて三軒になり、多忙を極めていただろうに帰国のたびに数回会う彼のたたずまいにせわしないところは微塵もなかった。この人は会うたびに余裕を増してくる、と私は思った。

 このことは、身体の変調を覚え、意識的にか無意識的にかそう遠くない死を感じはじめてからの彼にことにいえる、と、いまひるがえって思う。この八月に何度か会った彼は、肉体的にはそうとう辛かったはずなのに、淡淡と自由なこと、これまで以上だった。八月末パリに帰っての発病、九月末の毎日ファッション大賞授賞式のために帰国・出席する体力はもうない病床でも彼の自由な発想はあふれつづけ、そして今回のコレクションである。

 八時からの四回目のショウがいつも以上に熱い拍手のうちに終わったあと、観客はトキオ・クマガイ・インタナショナルからの何らかのメッセージを待っていたようだ。しかし、特別のメッセージはなかった。コレクションじたいがメッセージだった。いっそう軽やかに、いっそう自由に、言い換えればいっそう確かになった彼の仕事は、さらに軽やかに、さらに自由に、さらに確かに続いていく。スタッフの中のトキオはかりそめの死を超えて生きつづけ、彼らと対話し、創作しつづける。

トキオは生きている。